Genuine Story Vol.01
「間」とは何か。〝日本の美意識の根幹となっている感覚〟
著書『八つの日本の美意識』でそう言い表すのは、建築家・プロダクトデザイナーの黒川雅之さん。長年、日本の美意識と「間」の概念を探求してきました。
その姿勢やプロダクトに共感し、自らも日本的感性を備えたショールーム「BLANDET Tokyo」や、ジャケット専業ブランド「ジャケット」を運営する MIYAMOTO SPICE 宮本哲明さんが今回、日本酒 GEN を挟んで、黒川さんと向き合います。
黒川さんが求める日本の美意識。その根幹としての「間」とは何か。
それは日本の、どんな文化から生み出されるのか。
今、私たちが思い起こすべき「美」とは。
親子ほど年の離れた2人。
その空間と時間の隔たりを GEN が繋ぎ、「間」と「日本」、「美」
を巡る Genuine Story を紡ぎます。
Genuine Story
-間-
Masayuki Kurokawa | Tetsuaki Miyamoto
Index
- 自分の底にある美意識を吸い上げる。
- 「間」を知るには、「物」を知ること。
- モノは神。生きる空間すべてが「間」。
- クリエイションとは削ること。
- 人間は「群れ」でしかない。
- 原初人の思想を辿る。
- 我々の美はわからないことから来ている。
- 殺気立った「間」に美が生まれる。
The sense of beauty
自分の底にある美意識を吸い上げる。
宮本:私はここ数年で改めて日本の文化や美により興味が湧き、気が付けば取り扱う商品も、日本的なものが増えています。一方で、では日本の美とは何なのか。体感的には理解しながらも、言い表せないもどかしさがある中で、巧みに言語化されている黒川さんやご著書に出会い、感動しました。
今日は特に、日本の美意識の中核をなす言葉と指摘され、この日本酒 GEN のコンセプトにもなっている「間」について、GEN を囲んでお話を伺えればと思います。
黒川:難しいテーマを出されましたね(笑)。
西洋建築を学んでいた私が日本の美意識に向き合うようになった原点は、少年時代に過ごした故郷の民家にあります。
住んでいた名古屋に空襲があり、田舎にある父親の実家に引っ越しました。
茅葺屋根の農家。裏手には、水害のときに逃げるための書院造の家がありました。庭にはお茶室の数寄屋が立っていて、典型的な日本建築の原風景を集めたような民家だったのです。
小学生の頃は「ただいまー」って帰ってくると、逆光が差し込む薄暗い部屋にカバンを放り出して、すぐ川に遊びに行っていました。けれどそこで過ごした感覚が、ずっと蓄積されていたんでしょうね。
大学に入ると近現代の建築を学びましたが、ほとんどが西洋建築です。日本建築はほとんど無視されていて、不思議だ、変だという思いでいっぱいになったとき、僕の体の奥のほうにたまっていた日本の建築というものが突如、よみがえってきたのです。そこから吸い上げるようにして、日本の美意識というものに改めて、向き合うようになりました。
宮本:素敵ですね。ご著書でも引用されている『陰翳礼賛』(谷崎潤一郎)に描かれるような薄暗い日本家屋の美しさを、小学生ながら体感されていた。
黒川:田舎の家ですから、漆など、目に鈍い光を映す物はないんです。
洞窟のような暗がりがあって、その先に中庭からの逆光がある。
僕が感じる陰翳は光があって、その光を遮る物のシルエットなんです。お酒のボトルでもいいですね。逆光で見るとね、その周りも光るんですよ。人間だったら髪の毛がキラキラ光ります。
物凄く華麗な影。影って「負」のイメージがあるけれど、その陰翳は華麗で豪華な輝きなんです。僕はそこに、日本の美意識があるんじゃないかなと思います。決して、暗がりじゃないんですよ。

To know “between” is to know “things.”
「間」を知るには、「物」を知ること。
宮本:「間」に対する日本と西洋の意識の違いは何でしょうか。
黒川:まず、日本の文化はヨーロッパの文化とは裏腹です。僕は大学で近代思想を学びましたが、それはヨーロッパの思想、つまり、キリスト教思想でした。 日本にはさまざまな文化が西から流れ着きましたが、それ以前に日本で培われた宗教や思想は、根本的に違っていたはずです。私たちは本来、その日本古来の思想を発見し、明らかにしなければいけない。「間」という概念も、そこから生まれています。
宮本:「間」というのは、さまざまな要素が絡み合って出来ている気がします。なかなか、直接的に言い表すのは難しいです。
黒川:明確に言うと、「物・群れ・間」。物というのは人が意識した物、全部です。最も顕著なのが、神々や魂、アニマといったものです。 物と物との間には当然、なんとなく共振し、共鳴し合うような群れができます。群れができれば、その間に「間」が発生するでしょう。物がリンクして出来るのが「間」ですから、物を知らないと、間を知ることもできません。
宮本:たしかに、物を知るようになって、ようやく憧れの方と対話もできるようになります。そんな「間」を、GENのような物がまた、繋いでくれるのかもしれないですね。

All living space is “between”.
モノは神。生きる空間すべてが「間」。
黒川:モノとは古来、怖いものでした。台風だったり疫病だったり、抵抗することも、逃げることもできない。でも、気づけば雨が降って溢れて、実りが訪れる。
何か分からないけれど人間には制御できない、偉大なる力。日本ではそれをモノと呼び、神のようなものとして畏れ、感謝し、祈ってきたのです。
神様は、いろいろな姿で現れます。鬼や幽霊。水、岩、木。昔の人はのこぎりのようなモノも、神様のように大事に扱いました。 森から木を伐り出し、柱として建てた書院造は、神に取り囲まれた空間です。
GENが載っているこのテーブルだって、神だと捉えることができます。裏には神がいます。そういうモノとモノの間に「間」が生まれる。生きているこの空間、すべてが「間」なんですね。
宮本:私たちはどうしても、そういった日本古来の考えを見失っている気がします。
黒川:そうですね。これは明治時代に原因があります。西洋の新しい思想や言葉が入ってきて、翻訳によって多くの言葉が生まれました。たとえば「社会」や「自然」、「空間」もそうです。
自然という言葉は恐らく、老子の「無為自然」からとったのでしょう。自由自在に、心のままに、といった意味です。
しかし、ネーチャーという言葉は元々、西洋の思想ではカルチャーと対比の関係にありました。神が自分に似せて作った人間の世界であるカルチャーに対して、人間が食べるために生み出された動物、野獣的な世界を指したのです。今、自然という言葉はだいぶ別の意味で使われていますね。
このように明治の翻訳によって、本来とは違う意味の概念を与えられた言葉はたくさんあるのです。一方で、このとき入ってきた西洋の概念は、私たちの生活や文化に深く入り込んでしまっています。
たとえば建築で言う「空間」は、西洋的な神が決めた境界で仕切られた空間です。キリスト教世界では、人間も野獣も文化も、実体として捉えます。
でも、日本古来の大和言葉は、文字ではなくサウンドで対象を言い表します。そこではモノは実体ではなく、現象と捉えられるのです。
宮本:現象。
黒川:曹洞宗の開祖である道元や、仏教の唯識も、現代の現象学に相当するようなことを語っています。それ自体に実体はなく、あるのは「空」。空は何もないことです。
命が生まれ死に、生まれ死に、何もない。ずっと存在するということは一切なく、すべては、意識の中に作られた現象でしかない。 ここにお酒があるのも、僕が見たからお酒があると思っているだけです。モノは実体として存在しないという考えを前提に、日本の思想は培われてきたのですが、物質を中心とする西洋の近代思想が入ってきて、言葉とともに植えついてしまった。現代の人々はそういう世界に生きています。それが、「間」をなかなか理解させないんです。
宮本:ああ、そうか。だから黒川さんは、昔の日本を取り戻さなきゃいけないと仰っているのですね。そうしていかないと、日本人が日本人の心、アイデンティティを見失ってしまう。

Creation means
クリエイションとは削ること。
黒川:クリエイションとは、ゼロから存在を作るように思いがちですが、本当はそうでなく、削り取ることです。むしろ、穴を掘る感じです。
思想もデザインも、外から影響された思想、使いやすい言葉ばかりがこびり付いて、真ん中の大事な思想が見えなくなっています。だから、腹が立つんです。キリスト教が嫌いとか、そういう話じゃないんですよ。
中国で講演したとき、中国の方々だけでなく、70代のイギリス人のユネスコ関係者も深く共感を寄せてくれました。彼は言っていました。我々の街で一番真ん中、一番高いところにあるのは必ず教会だ。でもそれって変ですよね、と。西洋においても、神という概念に包まれて見えなくなっているモノがあると、気づいている人はいるのです。
20世紀初頭、ピカソやブラックが起こしたのも、既存の西洋社会をうわっと新しくしようという運動でした。ルネサンスに発明されたパースペクティブ(遠近法)から、どうやったら逃げ出せるか。パースペクティブは実体の見え方です。ピカソたちキュビズムは物質や実体、つまりキリスト教的な神を追い出そうとしたんです。その行き着く先は、日本の世界観と通じますね。
だから、もしピカソたちの思想が、近代の西洋思想よりも先に入ってきたら、日本の文化はどのように発展しただろうと、想像するのです。谷崎潤一郎も『陰翳礼賛』で、そういう意味のことを書いています。その発想はさすが谷崎さんと思いました。
日本の近代は、キリスト教思想から始まってしまったことで、多くの矛盾を抱えたまま発展してしまいました。日本古来の「物」や「間」という感覚を取り戻すことが重要です。それは詰まるところ、この世に実体はなく、信頼できるものは命だけという、命の思想が見えなくなっているからです。
宮本:確かに、日本の近代が違う形で始まっていたらと想像すると、すごく興味深いですね。

Humans are only a “herd”.
人間は「群れ」でしかない。
宮本:個人的な話になりますが、ここ数年、體(からだ) のバランスを整える先生のところに通っています。そこの先生が言うには、人間は「人の間」と書くだけあって、身体の中に「間」があるのが大事だそうです。その意味で、昔からよく言うように「胸をなでおろし、肩の荷が下りて、腰が立っている」状態は身体的にも好ましく、和服はそんな「間」を保つのに適しているようです。 そんな話を聞くにつけ、「間」が日本人にとって、いかに重要なものだったかを考えます。「間」の感覚を私たちが取り戻していくには、どうしたらいいでしょうか。
黒川:日本人にとって「間」の概念が大切なのは、結局はそれが、命の思想だからです。僕がそのように「間」を考えるようになったのは、分子生物学を学んだのが大きなきっかけでした。
人間の体は細胞でできています。それぞれの細胞が、どんな組織になるかを選択し、「群れ」を作って臓器や血管になる。そのエネルギーを生み出すのは細胞内に生息するミトコンドリアです。人間はそういった生命の集まり、37兆個の細胞の群れに過ぎないのです。
そういったレベルで人間を見ると、アイデンティティが揺るがされます。僕という存在は現象でしかない。そう分かったとき、日本の思想の原点が見えました。日本の美意識に対する見方も、より本質的な仕組みが分かったことで、『八つの日本の美意識』を書いたころから発展しています。
そう思うと、昔の人はすごいですね。分子生物学や脳科学が発達してようやく見えてきたことを、道元たちはどうして見抜いたんだろう。人間はむしろ、退化しちゃっているのかもしれませんね(笑)。

Trace the thought.
原初人の思想を辿る。
宮本:黒川さんは長く、日本の美意識や「間」について考えてこられました。プロダクトや建築を作られる際に、そういった要素が影響することはあるのですか。
黒川:今は、「日本」という意識がないんです。消えて行きました。日本の文化を商品化しようとか、日本という国を追求しようという感覚は僕にはなくて。代わりにあるのは、キリスト教など一神教が支配的になる前の「原初人」への関心です。
たとえば、生まれたばかりの赤ん坊はオギャーと泣きます。これは恐怖の叫びと思うんです。それまで温かい胎内にぷかぷか浮かんで、涅槃のような状態だったのに、この世に生まれ出て、自分の体がこんなに重かったのかとか、お腹がすいたとか、寒いとか。今まで感じなかったものを感じ始めるわけです。
原初の人間も、赤ん坊と同じだったはずです。最初は何も分からず、生きるための糧を探し求め、少しずつ世界を広げていくうちに、いろいろなところに神を見出していきます。それぞれの民族やコミュニティー、あるいは個々人の心の中に。このような「原初人」の思想のプロセスを整理し、辿ろうとしています。
キリスト教を中心とする近現代の思想は、「神が世界を作った」という逆転の発想です。本当は、人が神を見出したにも関わらず、唯一神がほかの神を覆い隠して、心の帝国を築いてしまった。それが物質的な世界観にも繋がっています。
だから僕は創作において、どんどん取り除いていく。そうしないとプリミティブな、最も素朴な、現象としての美は見えてきませんから。

Our beauty comes from not knowing.
我々の美はわからないことから来ている。
宮本:私はもともと、黒川さんのシンプルが凝縮されたプロダクトに心惹かれてきました。それらには日本的な美意識も含まれていると思っていましたが、黒川さんが創作において「日本」を意識されていないとお伺いして、少し意外です。
黒川:要するに僕は、「美とは何か」というときに「葛藤」だと言っています。不安定や不一致。矛盾が葛藤する中で美が生まれます。 対して、ヨーロッパは調和と統一を重視する「知」の美です。僕にとって知と美は正反対。我々の美は、分からないことから来ています。何かよく分からないけれど、胸を打つもの。それが原初の美でもあると思っています。
言い換えると、ヨーロッパの世界観は陸から海を見るんですね。穏やかでも、波打っていても、客観的に美しい。しかし我々は、海の中から海を見ます。 翻弄され、潮水をがぶ飲みしながら、だからこそ見られる美しさが、我々の美の世界観です。 シンプリシティは「削り落とし」と言われますが、むしろ多様性です。多様性をぐわっと高めていくと、あるところでアウフヘーベン(止揚)します。その瞬間に真実が生まれるんじゃないかと思うんですよね。
矛盾や葛藤をもっと強化して、多様性を追求したときに生まれる真のシンプリシティは、やせ細っているんじゃなく、豊かでおおらかな、太いものに違いありません。それをいつか、見たいものですね。
宮本:葛藤や矛盾、多様性から生まれる美。日本を直接意識しているわけではないと仰いますが、『八つの日本の美意識』で提示された美意識の概念と近い気がします。

Beauty is born in the deadly “in-between”.
殺気立った「間」に美が生まれる。
宮本:最後に、黒川さんにとっての「間」とは何でしょうか。あらためて教えてください。
黒川:端的に言うと「間」とは「負」の空間です。陽に対して陰。なのに、どうしてあんなにも緊張感に満ちているのでしょうか。 その緊張感を、僕は剣道に喩えます。剣を握って敵に向き合うとき、力を抜いていますが、いつでもぎゅっと緊張できる状態です。あるいは、獲物の群れをじーっと見つめるライオン。あの飛び掛かる直前の瞬間の感覚が、「間」ではないかと思います。
それは日常の中にも再現できます。たとえば今のように対話するとき。名刺を切って挨拶を交わすとき。モノとモノが近づいたときに走る緊張がありますね。この「殺気立った感覚」が、僕たちに最高の美を見せてくれるかもしれないと思います。
この感覚を空間に落とし込むために、僕らは感性を研ぎ澄まして、平面図を描きます。平面図がいいんですよ。そのほうが「物の群れ」「間」を想像しながら、殺気立った空間が描けます。このスケッチをするときが最高に面白いんです。見えないものを見るんですから。完成したときは、まあ、予想通りですから、感動や驚きはほとんどないです(笑)。
宮本:思考のタイミングで最高の感動が訪れるというのも、面白いですね。 今日は黒川さんの美意識の源泉から、現在も模索しておられる美の展望をのぞかせていただきました。ありがとうございました。

「どんどん美味しくなってきている」
対談の終盤。
自らのプロダクトである盃型のグラスに注がれたGENに目を細めながら、黒川さんがゆったりとつぶやきました。
少年時代に過ごした民家の陰翳。神であるモノ。日本古来の思想。原初の美。
〝日本の美意識の根幹〟としての「間」。
すべてを理解することなど到底、かなわないでしょう。それでも世代を超えて語り合い、共に思索を深めることで、見えてきたモノがあります。
2人の間に培われた唯一無二の「間」。紡がれたGenuine Story。
そこにGENは、静かに寄り添っていました。
